ティームの歴史

 JLOCのメンバーでレーシングカー設計やっていた寺井輝昭(写真)は、ランボルギーニでレースをやりたいと考えていました。とはいっても、マシンがあるわけでも、強力なスポンサーがいるわけでもありません。
 1993年、寺井は全焼したCountachを手に入れ、当時自動車雑誌編集長でやはりJLOCメンバーの明嵐(メアラシ)正彦と翌年から始まる全日本GT選手権に出ようと計画。焼けたシャシーを補強し、一体型プラスティックボディを積む予定でした。

 1994年春になっても、マシンは出来ていませんでした。当然第1戦の富士は欠場するしかありません。ところがCountach参戦のニュースは注目を集め、主催者側からどうしても富士から登場してほしいと再三要請がありました。
 そこで、明嵐は著名漫画家でレーシングドライバーでもある池沢さとしを招き、マシンもアートスポーツから提供してもらうことに成功。一方、寺井も著名レーシングドライバー和田孝夫とレインXのスポンサーを獲得しました。

 アートスポーツから提供されたのはノーマルのCountach。豪華な内装を力任せに剥ぎ取ってもレースをするには重過ぎました。しかも、エンジン、クラッチ、ミッション、デフとすべてノーマルのままです。僅かにブレーキとタイヤホイールのみレース仕様に改造されマシンは一応完成し、総監督にJLOC会長の則竹功雄を迎え(以後現在まで)ティーム体制は確立しました。寺井が監督となり、和田/池沢両選手で全5戦に参戦し2回の完走を果たしました。

 ティームはディアブロでレース専用マシンを開発することになりました。寺井は病身に鞭を打ちマシン製作に心血を注ぎ、JLOCメンバーの田村直丈がレースカー制作費をスポンサードしました。そして1995年3月にディアブロ・イオタは完成、第1戦から参戦しました。
 しかし、寺井は8月、癌のために死亡してしまいました。95年は5戦中完走4回。96年は5戦中完22回という成績でした。こうしてティームは次期マシンを開発することになりました。

 1997年のティーム体制は池沢選手のかわりに和田久選手が和田孝夫選手とタッグを組むことになりました。マシンは新開発のディアブロGTRで、エンジン背後にヒューランド社製6速シーケンシャルミッションがつきよりピュアなマシンとなりました。が、このミッションにトラブルが続出し、5戦中2回の完走に留まりました。
 しかしこの年、ツインリンクもてぎで行われたオールスター戦では第1レースで9位となり、ディアブロの速さの片鱗を見せました。
 1998年のティームはベテラン和田孝夫選手にかわって古谷直広選手が入り、また監督も舟木俊一が就任、マシンも大幅な改造がなされ、ディアブロGT-1となって投入されました。全6戦で一度もリタイヤせず最高位9位で、すべてを完走は見事でした。
 翌1999年も同じ体制で全7戦に参戦、4回完走を果たしました。またオートポリスでのオールスター戦では大きなトラブルを抱えながら12位完走となりました。

 2000年は素晴らしい年となりました。古谷直広選手と高橋毅選手がまずGT戦は全戦完走という素晴らしい記録を、そして鈴鹿1000kmではこの二人と和田久選手の3人で並みいる強豪を押さえて総合3位表彰台となりました。2001年待望の新型車ディアブロJGT-1がデビューしました。ドライバーは4年目の古谷直広選手と元F1ドライバーたるマルコ・アピチェラ選手の新体制となりました。
 また、監督はティームオーナーである則竹功雄が兼任、エンジニアにはティーム創設時チーフメカニックを担当した寺井恒俊(ティーム創設者、故・寺井輝昭の弟)を迎えて必勝を帰しましたが、マシンの完成が大幅に遅れて第1戦に間に合わず、マシンはサーキットに持ち込んだものの、まともに走る事ができませんでした。マシン完成度が低く、後半戦になって全戦完走しました。

2002年 この年も苦しい戦いが続きました。マルコ・アピチェッラ選手と和田久選手で参戦。メンテナンスファクトリーが愛知県に完成し体制が立て直されました。全9戦中2回完走。
2003年 和田久選手と山西康司選手がステアリングを握り、JGTCでは最高位8位、全8戦中5回完走という結果を残しました。鈴鹿1000kmではトラブルを抱えながらも5位に入賞しました。
2004年 ニューマシン、ムルシエラゴRG-1を投入。ドライバーは山西、WADA-Q(和田久改め)両選手。またエンジニアにクエストの五十嵐協二を迎えました。ベースマシンのR-GTがFiA-GT仕様なので、それを小改造したRG-1はJGTCのレギュレーションでは不利で非常に苦戦しましたが最終戦は完走しました。
2005年 RG-1の熟成が進み、エンジニアにアルナージュの伊藤宗治を迎え、開幕戦岡山では13位完走を果たしてスタートしました。ドライバーは同じく山西康司選手とWADA-Q選手です。

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